2010年 01月 18日
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ヨコハマフォトフェスティバルにてPGIの高橋朗さんとトークショー。
自身の作品を説明しながら、ほとんどは「セルフステートメント」という部分の問題。
アートを先達している地域でのエデュケーションで最も最初に教えられることなのに対して日本の写真界で全く馴染みの無い言葉。
僕は今回のトークを請け負ったときに、それを話したいと思った。
文化レベルや写真のレベル、そういったものが欧米諸国と並んで進んでいるのに対して日本が追進している現在の状況を最も表している事柄であり、言葉だと思ったからだ。
僕らはきっと感覚的、もしくは強烈な才能に慣らされ、それを在るべきものとしたメディアや評論家の”大きな声”に慣らされてしまっている。そしてそこが若手を多く含んだ作家の依りどころになってしまっている。
それは単純な言葉で言えば障壁ではないだろうか。
一部の発声力を持った何かに、僕らは理解されることでしか前に進めないのである。
作家が何かを伝えること。それがどのような意味を持ち得るのか。
それは、とても自由で、そして懸けた出来事だ。
器用になる必要などなく、不器用でも筋を通すことこそが必要なことなのだと、それを言いたいための「セルフステートメント」論だった。
ポートフォリオレビューや展示には様々な作家が参加したと思うけれど、そこでうだうだと会話が交錯した経験を持てた人にはより分かると思う。
筋と形が人には目に付くのだ。
筋が通らねぇ、形無し、ではやはり気質に合わないのだ。
自身の作品を説明しながら、ほとんどは「セルフステートメント」という部分の問題。
アートを先達している地域でのエデュケーションで最も最初に教えられることなのに対して日本の写真界で全く馴染みの無い言葉。
僕は今回のトークを請け負ったときに、それを話したいと思った。
文化レベルや写真のレベル、そういったものが欧米諸国と並んで進んでいるのに対して日本が追進している現在の状況を最も表している事柄であり、言葉だと思ったからだ。
僕らはきっと感覚的、もしくは強烈な才能に慣らされ、それを在るべきものとしたメディアや評論家の”大きな声”に慣らされてしまっている。そしてそこが若手を多く含んだ作家の依りどころになってしまっている。
それは単純な言葉で言えば障壁ではないだろうか。
一部の発声力を持った何かに、僕らは理解されることでしか前に進めないのである。
作家が何かを伝えること。それがどのような意味を持ち得るのか。
それは、とても自由で、そして懸けた出来事だ。
器用になる必要などなく、不器用でも筋を通すことこそが必要なことなのだと、それを言いたいための「セルフステートメント」論だった。
ポートフォリオレビューや展示には様々な作家が参加したと思うけれど、そこでうだうだと会話が交錯した経験を持てた人にはより分かると思う。
筋と形が人には目に付くのだ。
筋が通らねぇ、形無し、ではやはり気質に合わないのだ。
by ryoohwada
| 2010-01-18 00:49