2010年 08月 11日
8/11 |
個展「ノーツ オン フォトグラフィー」が終了。
会期中は様々な方に来て頂けて大変ありがたく思っております。
個展の会場で自分の作品とその空間を眺めることで気付くことがいつもある。
今回に関して言えば、「展示」という方法は自分にとっての「写真」というものの本質的な意味合いにかなり近い行為に思えるということだった。そう考えると、撮影やプリントといったものには技術的意味合いとしての写真行為はあるものの、どちらも「展示」を支えるべくして行われているという風に思える。
様々な写真論などで語られてきた被写体に対する無差別性、等価値性、無秩序性など、僕はそのあたりのキーワードに触発されながら同時に写真そのものの表層的な見え方だとかタイポロジーという方法論を意識して作品を考えるというのが最近の方法になっていると思っているけれど、実際それを理路整然と系統立てて「言葉」によって説明することはまだ叶っていない。短い言葉で言ってしまえば僕にとっての写真の本質はその論の部分とプリントという物質性への興味にある。
「まだ叶っていない」と言った通り、その論ずる部分に関してはまだ言葉足らずで、それが僕が完全なアーティストステートメントを書ききれていない要因なのだけれど、「展示」されている空間にはそれがはっきりと見えているように思えた。それは朧気ながら僕にいくつかのキーワードを今回与えてくれたように思う。今回の展示に本質的な意味合いを見たというのはそのあたりのことを考えてのことなのかもしれない。
ワインであれ、活版であれ、風景でも複写でも、そこにある写真にはそれぞれにコンセプトがあり作品それぞれの立ち位置がある。個展という場で具体的であるそれらがランダムに並べられることで立ち上がる抽象的な空間表現は、写真家としての僕にとって満足の行く手法であり、それが僕の写真論(アーティストステートメント)の一部を体現しているものだと確信しているところがある。
まだまだ僕はそれを実践しなければいけないし、それに足る言葉を探さなければいけないと、ベッドに横になりながら考えた。そこには掴めそうで掴めないもどかしさがある。それでも今回の個展で少しでもその輪郭が見えたことは自分にとっての最大の成果であると思える。
会期中は様々な方に来て頂けて大変ありがたく思っております。
個展の会場で自分の作品とその空間を眺めることで気付くことがいつもある。
今回に関して言えば、「展示」という方法は自分にとっての「写真」というものの本質的な意味合いにかなり近い行為に思えるということだった。そう考えると、撮影やプリントといったものには技術的意味合いとしての写真行為はあるものの、どちらも「展示」を支えるべくして行われているという風に思える。
様々な写真論などで語られてきた被写体に対する無差別性、等価値性、無秩序性など、僕はそのあたりのキーワードに触発されながら同時に写真そのものの表層的な見え方だとかタイポロジーという方法論を意識して作品を考えるというのが最近の方法になっていると思っているけれど、実際それを理路整然と系統立てて「言葉」によって説明することはまだ叶っていない。短い言葉で言ってしまえば僕にとっての写真の本質はその論の部分とプリントという物質性への興味にある。
「まだ叶っていない」と言った通り、その論ずる部分に関してはまだ言葉足らずで、それが僕が完全なアーティストステートメントを書ききれていない要因なのだけれど、「展示」されている空間にはそれがはっきりと見えているように思えた。それは朧気ながら僕にいくつかのキーワードを今回与えてくれたように思う。今回の展示に本質的な意味合いを見たというのはそのあたりのことを考えてのことなのかもしれない。
ワインであれ、活版であれ、風景でも複写でも、そこにある写真にはそれぞれにコンセプトがあり作品それぞれの立ち位置がある。個展という場で具体的であるそれらがランダムに並べられることで立ち上がる抽象的な空間表現は、写真家としての僕にとって満足の行く手法であり、それが僕の写真論(アーティストステートメント)の一部を体現しているものだと確信しているところがある。
まだまだ僕はそれを実践しなければいけないし、それに足る言葉を探さなければいけないと、ベッドに横になりながら考えた。そこには掴めそうで掴めないもどかしさがある。それでも今回の個展で少しでもその輪郭が見えたことは自分にとっての最大の成果であると思える。
by ryoohwada
| 2010-08-11 22:26