2008年 11月 09日
11/9 |
PHaTPHOTO主催のワークショップへ。
僕が思っていたよりも、とても写真に対して真摯に取り組んでいる作品が多かった。自分自身の写真という枠組みを形成するまでの段階というのは、暗闇を手探りで歩くようなものだと思う。それは、クオリティ、考え方、写真というもの自体への姿勢、というようなものに収束される。
今日話した何人かは、その闇に飲まれて、もう何を撮ったらいいんだかわからない、という状況の人もいたと思う。僕もかつてそうだったし、未来の僕から見れば今の僕もその状況に近いのかもしれない。
要は、何をやったって、いつかは何かしらの後悔はするということだ。あの時こうしてたら、なんて思って当たり前だと思う。
問題は、いかに真剣に本質と向き合うかということだと思う。それはとても地味なことかもしれないし、もしかしたら自分のやりたいこととは少し違う地点にあることかもしれない。
うまく言えないけれど、物事の本質に差し迫ろうとする行為そのものが、僕には写真的な行動に思える。
ジャーナリスティックな記録に何かが宿るのは、きっとそういうことなんだろうと思っている。
僕が思っていたよりも、とても写真に対して真摯に取り組んでいる作品が多かった。自分自身の写真という枠組みを形成するまでの段階というのは、暗闇を手探りで歩くようなものだと思う。それは、クオリティ、考え方、写真というもの自体への姿勢、というようなものに収束される。
今日話した何人かは、その闇に飲まれて、もう何を撮ったらいいんだかわからない、という状況の人もいたと思う。僕もかつてそうだったし、未来の僕から見れば今の僕もその状況に近いのかもしれない。
要は、何をやったって、いつかは何かしらの後悔はするということだ。あの時こうしてたら、なんて思って当たり前だと思う。
問題は、いかに真剣に本質と向き合うかということだと思う。それはとても地味なことかもしれないし、もしかしたら自分のやりたいこととは少し違う地点にあることかもしれない。
うまく言えないけれど、物事の本質に差し迫ろうとする行為そのものが、僕には写真的な行動に思える。
ジャーナリスティックな記録に何かが宿るのは、きっとそういうことなんだろうと思っている。
by ryoohwada
| 2008-11-09 21:49