2008年 11月 14日
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昨日は、イギリスのある編集部の依頼でイッセイミヤケデザインオフィスへ。打ち合わせの後、現代美術館へ。展示をいくつか撮影後、恵比寿と目黒のワインバーをいくつか。なぜかどれも特異な理由で開いてなかった。こんな日もあると思いながら帰宅。
今日、午後に高輪の催事へ。
何か別の世界を見たような気分になる。何百万という単位の絵画が売れていく様子を見る。
日本庭園を歩きながら考えたことは、「"比較"という対象から逃れられるものはこの世には無い」ということだ。なぜそのようなことに行き着いたのか、というのはあまりにも説明が長くなるので省略するが、僕が今日考えたなかでは、評価や基準、存在するということそのものが"比較"によって成り立っているように思える。
それは、均一的に作られたはずの工業製品にも言えることだ。発生した場所を一歩離れれば、どこに出荷された、誰の手に渡った、その他様々な因子が重なり続ける。
全てが比較によって位置付けられ、その細分化によってヒエラルキーのようなものが形成されると考えれば、いろいろなことに対する考え方がシンプルになるような気がした。
例えば、写真家という立場を分析すればどうか。写真を撮るという人間を類型的に並べていった場合、そこに宿る一人一人の差異とはなにか。その差異こそがオリジナリティに繋がっていくものであり、それを評価する人がいるのかという問題に収束される。違いというものが事物を輝かせるものか、貶めるものかというのは、もしかしたらもっと理解しやすい現象として表すことが出来るのかもしれない。
今のところ、こんな分かりにくい文章でしか伝えられないが、僕は今日「比較」というものが自分のコンセプトの根底にあるものだと気がついたように思う。ROUNDも、文字の作品も、ワインの作品も、ランドスケープも全て僕がやっていることはミニマルな表層の裏にある、細かな差異を見つめるものであると思う。
それが、自分にとっての「美しさを分析する」という行為になっていくのだと思うのだ。
by ryoohwada
| 2008-11-14 20:35