2009年 02月 23日
2/22 |
終わった。個展とグループ展が。
約一ヶ月に渡る、長期の展示。途中でグループ展が入ったことは、自分にとってとても良いことだった。今日も、もんちゃんがやられていたが、あの場で「売る」ということを最上の目的に何を話し、伝えることはとてもパワーのいることであるし、なによりも不慣れな場であることが否めない。一人で立ち回ることと、すぐ横に仲間がいることは心持ちが全く違う。
海外のギャラリーで同じことをするのは、また違うようなところもあるし、ギャラリーで話しをするのともまた違う。百貨店の画廊。それがこれからも勝負する一つの場として神経を巡らせていることは、やはりある程度の試験的な考察を要求されるものなのではないかと思う。それは皆同様な見解だっただろう。
何を作っている。なぜ写真を撮っているのか、そういった本質的なものとは違った価値観がある。「それって売れるの?結局売れたの?」それは、あまりにも簡潔な結果であると共に、絶対的な評価だった。
僕がいつもそういう場で自覚することがある。
自分は、ARTを志しているのだ、ということだ。と共にARTを芸術とも、美術とも訳す日本語になにかの意識のすれ違いがあるのだと思う。
そして、救いは、根源は、それを求めてくれる人がいるということなのだと思う。
約一ヶ月に渡る、長期の展示。途中でグループ展が入ったことは、自分にとってとても良いことだった。今日も、もんちゃんがやられていたが、あの場で「売る」ということを最上の目的に何を話し、伝えることはとてもパワーのいることであるし、なによりも不慣れな場であることが否めない。一人で立ち回ることと、すぐ横に仲間がいることは心持ちが全く違う。
海外のギャラリーで同じことをするのは、また違うようなところもあるし、ギャラリーで話しをするのともまた違う。百貨店の画廊。それがこれからも勝負する一つの場として神経を巡らせていることは、やはりある程度の試験的な考察を要求されるものなのではないかと思う。それは皆同様な見解だっただろう。
何を作っている。なぜ写真を撮っているのか、そういった本質的なものとは違った価値観がある。「それって売れるの?結局売れたの?」それは、あまりにも簡潔な結果であると共に、絶対的な評価だった。
僕がいつもそういう場で自覚することがある。
自分は、ARTを志しているのだ、ということだ。と共にARTを芸術とも、美術とも訳す日本語になにかの意識のすれ違いがあるのだと思う。
そして、救いは、根源は、それを求めてくれる人がいるということなのだと思う。
by ryoohwada
| 2009-02-23 00:47